第三章
ファスナー

 パピヨンは足早に、廊下を歩いてゆく。
 早くVIPルームに戻らなければいけなかった。
 廊下はわりに静かだ。前方から女の息を切らした喘ぎ声と男の低い声がが聞こえてくる。
 途中のロッカー・ルームの中で、誰かがセックスしているようだ。通り過ぎるとき、彼は
「ああーッ、すごいッ!」
と叫んだ。中で、備え付けのベンチと灰皿のスタンドをガタガタと倒す音が聞こえた。
「アッハハハハァ」
満足してパピヨンは笑う。きっとアルバイトの女の子と男の子が、ちょっと時間を作ってヤッちまおうとしてるとこだったに違いない。
「フフ・・・僕らなんて、結局VIPに行けば好きなだけヤッてんのに」
 VIPルームに着くと、すでに他12人の面々が揃い、好きなように遊んでいる。ゴディヴァが、ジョイントを咥えながら寄って来て、パピヨンのコートを脱がせて受け取ると、パピヨンの背に腕を回してキスをした。
 ゴディヴァはいつも、酔っ払ってくるとこうやって人に煙を吹き込む。
 パピヨンは煙を肺に吸い込んで吐き出すと、奥まった一番暗いソファに、ジェフリーのいるところに行った。
「遅くなったわ」
 ジェフリーはゆっくり彼女を振り向くと、少し笑う。そこそこ機嫌は良いようだ。
「待っていましたよ。今日のライヴは上手く行きましたか」
「ええ、まあね・・・」
 ジェフリーはパピヨンのロングブロンドを撫でて、自分の開いた脚へ向かい合わせに座らせる。
「ブロンドのウィッグなんて取ってしまいなさい。あなたはブルネットの方がいい」
「似合わない?」
「まるで安っぽい娼婦みたいでしょう」
「同じだよ、僕はあなたの囲っている娼婦なんでしょ」
「またそんなことを言う!」ジェフリーが、傍らのサイドボードからブランデーの瓶を持ち上げて一気に呷る。「何故そんなにわたしに反発する」
パピヨンがその瓶を無理矢理取ると、ジェフリーは彼女のウィッグを毟り取った。
「やめて!頭がグシャグシャよ。・・・時間が無くてちゃんとしてこなかったんだから・・・やめてっていってるだろ」
「やめない。ほんとにあなたは反抗的なひとですね」
ニヤッとパピヨンは挑発的に笑う。残った酒を全て飲み込んでしまうと、咽喉が焼けた。胃が熱くなってきて、一層気持ちが尖ってくる。
「なんでだろうね。そうしたくなるんだよ、ダディ」
「酔っ払っているのはわかるけど、わたしにそういった態度を取るのはよくないって、身体が知ってるでしょう?・・・本気でしたくなったらどうするんですか。今までは我慢してきたけど、いつ本当にやってしまうかわからない・・・そうしたらあなたはどうなるか」
 その居丈高な勝ち誇った口調。王者の口調。弱い物を、わざわざ遠回りして追い詰めるような言い方。
 ムッとするが、頭が重くなってきた。睨みつけてみても、ジェフリーにとっては可愛いペットの仔猫が不貞腐れているだけ。
「クイーン、怒らないで」
「べっつに・・・怒ってなんかない」
 ジェフリーがいつものようにソファに組み敷いて首筋から口元へと唇を這わせてくる。少し抗って顔を背けると、今日アンドルーに不意にしたキスを思い出す。
(誰かに自分からキスしたくなったのは久しぶりだ)
(あの男は何か不思議だった)
(妙にストイックで・・・彼女がいるだなんて・・・ああ、実際ガッカリ・・・!)
「ああ、嫌、やめて。ちょっと気分が悪いんだ」
「随分飲んだ・・・?あの男と?」
 音を立てて血が引き、朦朧としかけていた意識が戻った。必死に表情を変えないようにしたが、多分気取られた。
「ど・・・の男・・・?」
「身体の大きな黒人の男ですよ。今日ピアノの伴奏をしていた」
「ああ」うまく言い逃れられるかもしれない。「ピアニストはピアニストよ。急にアドリブで頼むのも良くないって、少し打ち合わせしたの」
「じゃあ、ショウのときは彼、演技か。ふうん、なかなかですねえ、アドリブみたいに自然で客を楽しませるリアクションだった」
「ライヴ見てた?」
「見ましたよ。ここをちょっと抜けてね。・・・何故、三曲目に涙ぐんでいたのか」
 しばらくパピヨンは視線を中に泳がせていた。怯えたような目をして、身を起こしソファに座りなおす。両手を顔に当てて、下を向くと動かなくなった。「泣いてなんかない」
 抱き寄せようと伸ばされた指の長い手、ジェフリーの青白い手をはねのけると、もう一度繰り返す。
「泣いてなんかなかった」
「またいつものヒステリーですか。・・・そんなに、子供が欲しいの?自分の子が?」
「やめてよ!殴るぞ、チクショウ」
「しかもお前は、その子を産みたいんだ」ハスキーな掠れた声で、ジェフリーは続ける。「俺だって、産ませられるもんならいくらでもお前とやって産ませてるよ」
 一番の、自分のコンプレックスをジェフリーに握られている。それだけでも悔しいのに!
 パピヨンはいつもの発作的なヒステリーを起こしかけて、必死で自分を抑えようとした。酷い男。悪魔のような男め。こうやって人の傷をわざわざ抉り返して楽しみやがる、爪の先までの真性サディストめ・・・!

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