第八章
開 始

 目を覚ますと、パピヨンの頭はどんよりと重かった。
 隣には、もうジェフリーはいない。
「何を飲ませやがった、あの男・・・」
 とりあえず、痺れたような口を治したくてベッドサイドに置いてあるクーラーから水を取り出す。冷たいエビアンを飲んでも、だるいような全身の重さは変わらなかったが、咽喉がガラガラだったのが少し和らいだ。
「歌えなくなったらどうしてくれんの、全く」
 自分は好きな時に好きなだけ酒を飲み、煙草やマリファナを吸うくせに、気が立っているのでいくらでも悪態をつける。
 胸のなかでぶつぶつ言いながら、時計を見ると、そんなに長い時間眠っていなかったことがわかった。
 実際にジェフリーが出て行ってから、たいした時間は経っていない。
 ・・・そうか、今日は『処刑日』だった・・・
 あの子・・・リサとかいったっけ。可哀相に・・・よりによって『この組織』の内部を見てしまうなんて。
 実際、外部の人間が侵入して組織が暴かれた場合、幹部全員ブタ箱行き確実だ。違法の巣窟、マリアン・カナビス。ジェフリーのことだから、財力や女をもってして警察にもうまく手を回しているだろうが、ひとつボロがでれば芋蔓式にずるずると法的違反事物がでてきてしまう。たとえ獲物がジャンキーや廃人同様だとしても、何人もの人間を行方不明沙汰にしているし、ぶっちゃけ処分してきたのだ。
 警察とも、隠蔽事の交換条件でパクられてないだけかも知れない。
 警察が裏切ったらどうするんだろう?パピヨンは今更ながら不安になる。
(あんな、一般人もいいとこのただの女の子を引きずり込むからだ。オカルトもサブカルチャーもない。こちらが求める人間じゃないのに・・・ラミレスもどうして、リサを教団に持ち込もうとしたのかしら)
(・・・警察だって、あの死体について今のところ多くは語らないけれど、もし我々が関係していると知ったら)
(そうでなくとも異常殺人だ、勿論特殊捜査をしている)
(・・・でも何故、ジェフリーはリサにマインド・コントロールをしなかったんだ?アンドレイを始め、皆にしてきた事なのに。一定期間、13ケージの特殊房にブチ込んどけばいいんじゃないか。それが失敗したとして、その時点で処分すりゃいいんじゃないか?)
 パピヨンは飲み込みかけていた水を、洗面所に行くと吐き出した。不味い。
 いつから自分は、ジェフリーのように人間を『モノ』扱いして考えるようになったんだろう。マリアン・カナビスに毒されたふりだけをしてきたのに・・・気がつかぬうちに、自分も、この組織の空気に混じりこんでいるんだろうか。
 もしかしたら、自分自身、特殊房に入れられたときから、もう自我は崩れていたのか・・・?
 あの、真っ白な部屋。全てが真っ白な部屋、全ての感覚を遮断され、刺激を奪われて、時間の流れもわからない部屋。
 自分に行われたマインド・コントロールは感覚遮断だけだった。それだけで良かった人材だったということかもしれない。実際、パピヨンは薬もやらずに幻覚を見て発狂しかけ、頭を壁に打ち付けて死のうとした。被されていたヘッドギアのような物を砕いてしまうほど強く、何度も叩きつけて最期には昏倒した。
(でも、あれはあの時だけだと思ったのに!・・・僕は大丈夫なんだって・・・)
(酷いモノを見たからだ。あんなのってない・・・記憶が無い部分もある・・・僕は耐えられなかったのかしら、僕の精神は)
 娼婦の私生児として生まれ、学校も行かずに己も売春をして生きてきたパピヨンにとって、自我は誰よりも強いと思っていた。自分に自信があった。己の確固とした生き方と、理想と、ポリシー。喰えるときに喰い、稼げるときに稼ぐ。拠り所があれば、次の場所が見つかるまでそのパトロンを決して離さない。そうやって22年間生きてきた。
 アイデンティティは確実に、揺るがずにあると思っていた。
 パピヨンが特殊房から解放されて、頭蓋の傷をジェフリーの手の回った病院で治療しているとき、ジェフリーは自ら彼女の病室に来て言った。
「あれは特別、マインド・コントロールじゃない」
 その時はジェフリーはスーツを着て、今のような銀髪の悪魔じみたヘアスタイルではなく、薄い金髪を短く刈った一見普通の優男だった。それでもパピヨンは戦慄する。何百人という男、時には女を利用してきた彼女には、その異様な雰囲気が一目で見抜けた。
 以前新興宗教家のパトロンがいた・・・実際はサタニストだった・・・が、それを増幅させた感じだった。
「私は心理学も詳しくないし、催眠もできない。できるのは、異質の空間を作ることだけです」
「・・・幻覚を見たんだ」
「それはあなたの勝手。私はただ、あなたをあの部屋に入れただけですよ。皆、自分を異常な状況に置いて考え、脳を自発的に刺激するんです。幻覚、幻聴、幻臭・・・エトセトラ。実に面白い」
「あんたが何も打算せずに・・・洗脳する術を知らずにやっているとしたら、意味なんて無いじゃない?」
「頭を壁に打ちつけるなんて」ジェフリーはおかしそうに微笑んだ。「痛いのに」
「感覚が欲しかったんだ。死ぬ刺激が欲しかった」
「かわいそうに。私のせいですね。8針縫った・・・髪も剃らないといけなかった。あなたの髪。女性にとって大切なのに、ね?」
 ジェフリーはパピヨンを男と知って言った。パピヨンはおちょくられて怒る気も無く繰り返す。
「何の意味があるのさ、あれに」
「あなたは合格。気に入りました。・・・なによりもそのルックスが役に立つでしょうからね」
 結局、答えてはくれなかった。ジェフリーは勝手に喋る。少しおかしいんじゃないかというくらいに、会話を成り立たせない。
「あなたは私とともに、偶像になるのです。私の作り上げる人種のカリスマに。現人神となるんですよ」

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