第九章
ゴディヴァ

 フロアには、かすかに鉄の匂いが広がっていった。
 ラミレスが暴れるほど、ジェフリーは噛み付いた肩口の肉・・・哀れに痩せたラミレスのなけなしの肉に、歯を食い込ませる。
「あああああああァァァァァ!!いてええぇぇえええええ!!」
 獲物は狂ったように叫ぶ。
「やめろ、離せ、喰わないでくれッ・・・!!」
 血の味を感じたジェフリーは、自分で自分を抑えられなくなってしまう。この味だ。母親の胸の肉だ。人の血の味。家畜からは感じることの出来ない、身体の奥から突き上げてくるこの気持ちは俺を狂わせる。
 性欲と同じだ。
「畜生」
一度、ジェフリーは口を獲物から離して舌打ちした。
「噛み切れない」
「頼む、お願いです、やめてッ、やめ・・・ギャァアアッ!」
 折角苦痛から解放されたと思った男の懇願も聞こえないのか、今度は首に噛み付いた。首は意外と柔らかく、また適度に筋がある。本気で喰らいつくと肩よりも簡単に食い破れそうだ。
「やめて!」
 女が叫ぶ。
「死ぬわ!」
 ラミレスは半ば失神しながらも、声の主が、自分の惚れた女だと知った。ジェフリーは、その声の主を怪訝に思い、目だけをそちらに向けた。
 SMダンサーが、胸に大切そうにリルの頭を抱きしめて、処刑台を見えないようにかばっているのが解った。
 リルは、どうしたらいいのかわからずに、彼女の胸のなかで苦しそうにもがいている。
「姐さん、くる、くるし・・・見えない・・・見せて下さいよ」
 パピヨンは眉をしかめて、ジェフリーを見つめていた。
(・・・獣め)
 クイーンに見せ付けているという恍惚も助けて、ジェフリーはパピヨンがその場所に立ち、どこを見ているかなど気にしていない。パピヨンは口紅を綺麗に塗った唇を噛んだ。
(僕に噛みつけないからって、今最高に興奮してやがる・・・)
 ゴディヴァはなおも叫んだ。「マスター、もう充分です、この子だけは外に・・・」
「黙れ!・・・アンドレイ!」
彼女の声を遮ってジェフリーは真っ赤な口で怒鳴った。
 瞬間、パピヨンは身を翻した。彼女の居た場所を掠め、アンドレイがキャンバスから離れるとゴディヴァの脇腹を思い切り蹴り飛ばす。2メートル近い巨漢のアンドレイからは想像できないような素早さだ。ぐッ!とくぐもった声を漏らし、ゴディヴァは派手に吹っ飛ばされると、メイとチェイリーがいるあたりの客席に突っ込んで倒れた。リルは解放されてよろけ、アンドレイに腕をつかまれて引き戻される。
 パピヨンは、鉄製のスツールの間で苦悶し、咳き込んでいるゴディヴァに近寄ろうとした。ジェフリーはそれも見逃さない。
「アンドレイ、クイーンを捕まえろ!連れて来い!」
 痩身の魔人は、処刑台の傍らから素早く手錠をアンドレイに投げてよこす。
「何するんだよ、触るな!アンドレイ、何のつもりだよ!」
「お許し下さい、ジェフリー様には絶対なのです・・・ああ、お許しを!クイーン!」
「ふざけんなテメェ、モノを蹴り潰すぞ!」
アンドレイは女神に思い切り睨まれて慌てる。女神の逆鱗に触れてしまった!どうしよう・・・両神の主従として私はどうしたら・・・?迷うアンドレイにジェフリーは一喝した。
「何してる、暴れたら殴れ。連れて来いと言ってるだろうが!」
 殴る!?パピヨンは彼から飛びのこうとしたが、アンドレイの腕は長かった。まだ癒えぬ青アザの上からさらに水月を殴られて、彼女は動けなくなった。パピヨンの細い胴を抱え上げると、アンドレイはジェフリーの元へ悠々と歩いてゆく。
(イテェ・・・畜生、アンドレイめ、覚えていろ・・・!)
 息が詰まって顔をゆがめるパピヨンに、アンドレイはロシア語でお許しを、お許しを、と繰り返しながら手錠を片方かけた。
 メイとチェイリーは床から立ち上がれずにいるゴディヴァを見下ろしながら、また二人で囁き合っていた。

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